これが私の選んだ道(7) スポーツライター 山崎浩子さん

さまざまな人と触れ合い、
視野を広げることが大切


いざ引退してみると、
やりたいことがない自分に気づいた


yamazaki1.jpg引退直後、山崎浩子さんは、新体操の厳しい練習から解放された喜びに浸った。ところが、しばらくすると、「何もやりたいことのない自分」に気づき、がく然とする。さまざまな話が持ち込まれたが、どれも虚ろに感じられる。


「当時の私は、引退後の活動に対して、人から何か言われるんじゃないかとビクビクしていました。誰が何と言おうと、絶対にこうするという強い意志がなかったんです」


そのうち、知人から『いろいろな人に出会えるから』と勧められて、テレビの人気クイズ番組に出演することになった。
「ところが、当時はアマチュア規定が厳しく、タレントさんと同じ画面に映っただけでプロとみなされたのです。以後しばらく、後進の指導や選手との接触は許されませんでした」


やがて規定も改正され、スクールで指導を始めた。子供たちの笑顔を見るのに喜びを感じ、年齢別にカリキュラムを組んで指導したいと、自分のスクール開校に奔走。質のよい指導が評判を呼び、経営も軌道に乗り始めたころ、個人的な事件が世間の話題になった。「仲間に迷惑をかけられない」と経営から退き、また何もなくなってしまった。

 

自ら売り込みにいき、
スポーツライターとして再出発

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新しい転機は、思わぬ形でやってきた。手記を発表した出版社から、スポーツを書くことを勧められた。書くことなら昔から好きだ。スポーツ誌の編集長を紹介され、意を決して売り込みに行ったところ、「うちはゴーストを使わないよ」と一蹴される。しかし、自分なりのスポーツ観を話すうち、コラムを任せてもらえることに。「中身で勝負しよう」という編集長の言葉はうれしかった。現在では雑誌から新聞にと活躍の場を広げている。


「仕事で人に出会うたび、何かが私の中に蓄積していくように感じます。現役時代からもっと自ら出会いを求めるべきでした。さまざまな世界の人々と触れ合えば、それだけ視野も広がっていくのですから」



現在に至るまでの軌跡
yamazaki3.jpg1984年
9月、ロサンゼルスオリンピック後、社会人大会を最後に現役引退。その後テレビ番組に出演するが達成感は感じられなかった
1986年
子どもの指導にやりがいを感じる。自分のスクールを持ちたいと、友人と共同出資して有限会社を立ち上げ、88年品川と追浜にスクールを開校
1993年
手記を出した出版社の編集者から紹介され、スポーツ誌の編集部へ売り込み。スポーツコラム・インタビューなどを任せられる
2001年
日本体操協会・理事就任。04年北京大会新体操強化本部長に。引退後のいろいろな経験を糧にして取り組む


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【関連リンク】
山崎浩子オフィシャルサイト
日本体操協会 「新体操」 


【プロフィール】
山崎浩子(ヤマサキ・ヒロコ)
1960年鹿児島県生まれ。高校から新体操を始め、79-83年全日本選手権5連覇を果たす。83年東京女子体育大学卒業後、研究生として残り、84年ロサンゼルスオリンピックに出場し、8位入賞。現在はスポーツライター、新体操指導、イベントや舞台出演など、幅広く活躍。北京オリンピック強化委員会新体操強化本部長。


*JOC発行の「キャリアトランジションvol1」(2004.11発行)をWEB用に改稿して、掲載しています。


                                               (取材:2004年8月)